2017年9月
文・石村光太郎

 

2017年9月3日(日)クラリスブックスの読書会が開催されました。課題本は永井荷風の『濹東綺譚』を取り上げました。

梅雨明けぬ初夏に始まり、秋風がそろそろ冷たく感じる頃までの短い期間に、老作家と娼婦との間に芽生えたほんの些細な男女の機微をつづった小品です。昭和11年に226事件が起こります。そして昭和12年7月には日中戦争が勃発します。時代がどんどんキナ臭くなってゆく状況のなか、昭和12年の4月から6月にかけて『濹東綺譚』は新聞連載されます。厳しい世間の情勢のなか、ふと間が空いた時期にこの小説は世に出ました。戦時色が濃くなるのがもう少しだけ早ければ、当時のご時世の名の下にこのような題材の小説はけしからんと日の目を見ることはなかったのかもしれません。しかし幸福なことに我々はこの小説を読むことができます。

古本買取クラリスブックス 読書会 永井荷風

荷風は玉の井の娼家街へと足繁く通いつめるうちにこの小説の構想を得ます。麻布に在住する荷風の分身と思しき老作家が、当時の繁華街の中心であった銀座や浅草を越え、隅田川を東に渡り、どぶ川に囲まれた場末の私娼街へと辿り着き、やはりこの街に流れ着いたお雪という名の娼婦と出会い情を交わす様は、綿密に取材された当時の風俗描写のリアルさと叙情的な筆致により我々の心を捉えます。関東大震災から復興を遂げ、巨大な都市へと成長した当時の東京。戦時色を濃くしてゆく日本。その時勢に乗ることもできず、居場所を失った男と女がどこか昔の街の面影を残す濹東の地の一時の逢瀬は、懐かしさと哀しさに包み込まれてゆきます。

古本買取クラリスブックス 読書会 永井荷風

それでは『濹東綺譚』は荷風の体験から、当時の風俗を入念に描いたルポルタージュのような小説なのでしょうか。主人公と共に隅田川を越え玉の井の入り組んだ路地へさまよう我々は、「ぬけられます」という看板を横目にいつの間にかどこか境界を越え別世界へと足を踏み入れてしまうかのような思いに捕われます。
「檀那、そこまで入れていってよ」
夕立の雷鳴と突然の雨の中で不意に登場するお雪の登場とともにこの異空間は完成します。主人公の老作家を虜にした「お雪」なる女性は、荷風が玉の井の街で出会った女たちのなかに特定のモデルがいるわけではない、幻の女だったのではないでしょうか。お雪の内なる心情がいっさい語られないことにもそんな思いがします。寄る年波と変遷する時節のなか居場所を失った荷風の魂が、玉の井という場末の鄙びた娼婦街にみた幻想の行きずりの逢瀬が『濹東綺譚』の物語なのだと思います。昭和11年の風俗に取材しながら、まるでタイムスリップするSFのように俗世間から逸脱し、異次元の時空へと我々を誘い、この世にいる限り成就することのない男と女の情感と喪失感を描ききった荷風の筆は80年を経た現在の我々の胸にも突き刺さりました。

昭和15年戦時色が濃くなる中で、この作品に出会い感銘を受けた若き日の安岡章太郎は、軍隊で肺を病み入院中の堺の病院の図書室で偶然にこの本を発見します。昭和20年のこと、病院といっても粗末な施設の中、死を待つだけの人たちの中で再会したこの文学世界にどれだけ救われたか、安岡章太郎は60年あまりたった後『私の濹東綺譚』というこれまた小さな作品の中にその想いを刻みます。
4年ほど前のある日『私の濹東綺譚』の薄い文庫本をある人から何気なしに手渡されました。2、3日鞄の中に忘れて入れておいたのを見つけ、ちょっと時間があったので読み始めた安岡章太郎最晩年のこの随筆に魅せられ、とうとう荷風の『濹東綺譚』の迷宮まで行き着いてしまいました。いつか読書会で取り上げてみたいなと思い続け念願が叶いました。こうやって人から人へと繋がってゆく読書という行為、そして昭和11年に書かれた本を平成29年にたまたま読むという体験。これが生きていくために必要な営みなのかはわかりません。だがまたひとつ世界が豊かになる事は間違いないと思います。

 

クラリスブックス 石村

 

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