2017年11月
文・高松徳雄

11月5日の読書会では、須賀敦子の『ミラノ 霧の風景』を取り上げました。私は初めて読みました。

平易な文章のため、すらすらと読み進めることができるけれど、突然ドキッとするような言葉や出来事が登場するあたり、また、あまりなじみのない、近現代のイタリア文学の深い水脈を我々読者に押し付けがましくなく紹介する文章など、単なる思い出を綴った、ありきたりのエッセイではないということが読み取れるし、私が、須賀敦子という人がどのような人かあまり知らなかったということもあって、読み進めていくと少しずつ読者にわかるようになる、書き手としては、少しずつ素性をあらわすようになっているという意味で、『ミラノ 霧の風景』という一冊の本は、いろいろなエピソードがしっかりまとまった、完成された作品だと感じました。
タイトルもいい。20年以上前の思い出を語るわけだから、あやふやなところもあるはずだし、実際、どうだったか、こっちだったかあっちだったか、というような記述もあり、そのような、おそらく彼女自身も気づいていない思い違いすら、霧で覆ってくれるよう。

イタリア文学と言えば、私にとってはダンテやペトラルカがいて、そこからものすごくすっ飛んで、エーコの『薔薇の名前』になってしまうので、最初にも書いたように、イタリア文学の案内書という側面がしっかり備わっているところも見逃せないと思います。今回の読書会の参加者の方々も、私と同様な感じで、むしろ、それだからこそ、なじみのない作家の名前に、多少この作品に取っ付きにくい面があるように感じられた方も、近現代イタリア文学紹介エッセイとして読み進めると、楽しかった、という感想もありました。

20代の終わりから40代の初めにイタリアで過ごした須賀敦子。その思い出を自身が60くらいになった時に書き綴ったこのエッセイには、夫の死という暗い影に裏打ちされた深い洞察力があり、また、このくらいの期間を経ないと、このようにさらりとした文章として、多少客観的な視点から良い思い出も、そして辛い思い出も書けなかったのかな、思います。所々、彼女の強さを感じられるエピソードや言動を窺い知ることができ、考えてみれば、まだまだ日本の女性が一人で海外に赴くということが珍しかった1950年代、芯が強いからこそ、このような優しい文章が書けるのかな~と思いますが、そういった意味では、おそらくその後多くの海外生活エッセイが巷に溢れるけれど、海外の生活って素敵!という単純な感想しか出て来ないものとは確実に一線を画する、言ってみれば、少し無骨でリアリティ溢れる、なんというか、生活感がにじみ出ているような、香りではなく、匂いを感じることができる文章で、それはつまり、憧れではなく、むしろ親近感を持ってしまう文章に感じました。だからこそ、彼女の文章は多くの方に読み継がれて、全集すら出ているのだと思います。
以前どなたかに、須賀敦子ってクラリスさん好きかもよ、合うかもよ、と言われ、読みたい読みたいと思っていて、ようやく読書会で取り上げることができたのでした。いろいろな縁があり、いろいろな本と出会うことができます。どうもありがとうございました。

 

クラリスブックス 高松

 

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