2014年7月
文・石鍋健太

2014年7月6日(日)に行われた読書会のご報告をいたします。

クラリスブックス読書会 古井由吉

海へ向かう電車のなかで、隣りの女からおしつけられたアンパンを見下ろす杳子。その途方に暮れた表情やパンからはみ出たアンのことを何かの拍子にうっかり思い浮かべるたび、「自由闊達」に何でもない営みに耽る人々を懐かしむ「彼」と同じ気持ちに引きずり込まれそうになり、しかし寸前で踏みとどまりつつ、イメージを切り替えることで気持ちを落ちつけようと別の“アンパン”を探すのだけれども、いつでも決まって小津安二郎の『麦秋』で杉村春子が原節子に向かって唐突に叫ぶ「アンパン!」が聴こえてきて、そのあまりの爽やかさに結局涙ぐんでしまう。

この10年間、本棚の新潮文庫版『杳子・妻隠』をたぶん一度も開かなかったものの、この「杳子」という作品は、時折以上のような不意打ちでもって僕の心を不穏に乱すのでした。心に突き刺さって抜けぬままついに自分自身の一部と化した、いわば外科手術後に体内に残って少しずつ肉と同化していく金属のような存在。

読書会の課題図書として取り上げることになって久しぶりにこの本を手に取ったところ、頁の角がこれでもかと折られまくっていて驚きました。折ってない頁より折ってある頁の方が多いくらいで、これじゃ何の目印にもならない。言葉の連なりに圧倒されるまま、興奮に震えながら頁を繰った20代前半の青年のしわざでしょう。無理もありません、当時の僕にとって「杳子」はそれほど衝撃的な作品でした。古井由吉作品と出会ったことで、言葉で何かをあらわすということの可能性が一気に拓けたのをよく覚えています。その広大さに、何をどうしたらよいのかわからなくなってしまったことも。

それから10年とちょっと。30代に入ってからの「杳子」再読は、実に愉しい体験でした。初読の際は鼻息が荒すぎて全体的な“凄まじさ”の印象に頭が覆われるようだったのが、今回は一つひとつの細部の“凄まじさ”にいちいち驚き立ち止まりながら、じっくりと作品を味わうことができたような気がします。

クラリスブックス読書会 古井由吉

さて、今回の読書会の参加者は8名、プラス僕たちクラリスブックスのスタッフ3名。さぞこの作品に思い入れの深い人々が集まるかと思いきや、計11名のうち、半数以上が「杳子」初読、約半数が「古井由吉という名も最近まで知らなかった」とのこと。いままで、古井由吉好きな人としか古井由吉について話したことがなかったので、今回の読書会は、初めて「杳子」を読んだ人の感想を聞くという、期せずして貴重な機会になりました。どのような感想が飛び交ったかというと――「描写は精緻だが、現実世界とはかけ離れたもののように思えた」「言葉を失った、圧倒された」「これまで小説だと思っていたものとはまったく別の読み方を要請された」その他いろいろ、好意的な意見にせよ小首を傾げながらの感想にせよ、みなさん一様に「ガツン」とやられたことは確かだった模様。そんななか、僕が「ム…」と唸ってしまったのは、「これについて言葉で何かを述べることは困難」という実に身につまされる意見でした。まさにそのとおりで、古井作品について何かを述べようとすると、口を開いたとたんに踏み誤る気がして、恐ろしくて慌てて唾を飲み込んで、言葉の無限の可能性を感じさせてくれたはずの古井作品によって言葉の壁にぶつかってしまうというジレンマが悩ましすぎて、結局その“困難さ”自体を称賛してお茶を濁す、という事態に僕自身よく陥ってきたのでした。

その悩ましさにはまり込んで孤独に考え続けることもそれはそれで大事っちゃ大事だとは思うけれども、せっかくの読書会なので、なかなか言葉であらわし難い古井作品の魅力とか凄まじさとかについて、どのへんがどう凄まじいのか、「杳子」において言葉の連なりはいったい何を可能としているのか、といったことについて間違ってもいいから考えてみよう、ということでみんなでがんばりました。

特に興味深かったのは、登場人物の顔の描写がほとんど出てこないのに対して、細かな挙動や体形、そしてそれらが変化していく様については異様なほど書きこまれている、という指摘から始まった一連の話。「顔だけでなく、杳子や彼のプロフィールとか日常生活とかがぜんぜん出てこない」「二人の関係にまつわる事柄にしか触れられていない」「登場人物の背景が描かれないのになぜ小説が成り立つのか」などなど。三番目の問いには、端的に、「互いの背景を知ろうとしない二人の物語だから」と答えられるかもしれませんが、そんなんじゃ、それを可能とする仕掛けや手管を解き明かすことにはぜんぜんならない。

もちろん、なにも無理して解き明かす必要もないのですが、とにかく作中の様々な仕掛けについて具体例を挙げて、何がどうなっているのかを話し合いました。たとえば、ラスト近くになって初めて出てくる「好き」という言葉のインパクト。杳子の姉という第三者への仕方なしの説明として、あまりにもあっけなく彼の口から洩れた「ええ、それは、好きです」という台詞。彼がこれまで一度も杳子に対してこの言葉を口にしなかったといういかにもありそうな事実を、この台詞と続く一行によって読者は初めて知らされることになります。と同時に、二人の特殊な関係を追い続けてきたせいか、杳子の姉の常識や文脈の側から沸いて出たこの言葉につまづいてしまい、ごくありふれた言葉に違和感すら覚えてしまっている自分自身に思い至り彼とともに唖然とする。かと思えば数頁後には、いまは“健康な生活”を送っているはずの姉によるグロテスクな寸劇が披露されてまたも唖然。二重三重のアクロバティックな戦慄。すごいよ。

気づけば参加者それぞれが、神の宿る魅力的な細部や好きな場面を列挙しては、「すごいな」「すごい」「こわい」「やばい」と呟いていて、後半はなんだか奇妙なグルーヴが生まれているような感じでした。

数年前、蓮実重彦氏がある映画について、「芸のない羅列へと人を誘う作品だけが、映画の名にふさわしいものだったはずである」と書いていましたが、今回の読書会は、本についても同じことが言いたくなるような場でした。読書という孤独な営みから一歩抜け出し、言葉を尽くした「芸のない羅列」を通して “考えること”に励む。それが読書会の醍醐味なのでしょう。

総じて、参加者それぞれ有益な時間を過ごすことができたのではないかと思います。杳子と彼の関係の行方や病のモチーフなどに寄りすぎることなく、それらがいかに言葉であらわされているか、言葉にはどんなことができるのか、というような、あくまでも言葉の連なりを見つめながらの議論ができたことが、とてもよかったです。参加者のみなさま、どうもありがとうございました、おつかれさまでした。

クラリスブックス読書会 古井由吉

そうだ、あともう一点。今回の参加者のなかに、新刊の新潮文庫版『杳子・妻隠』に巻かれた又吉直樹さんの帯でこの作品を知ったという方が、数名いらっしゃいました。本との出会い方は人それぞれですが、帯文ひとつで本と人を繋いでしまう又吉さんの影響力はすごい。ちなみに、「ピース又吉がむさぼり読む新潮文庫」フェアで彼が選んだ他の作品は――稲垣足穂『一千一秒物語』、いしいしんじ『トリツカレ男』、大江健三郎『試写の奢り・飼育』、小島信夫『アメリカン・スクール』、谷崎純一郎『春琴抄』、太宰治『きりぎりす』、堀江敏幸『雪沼とその周辺』、町田康『夫婦茶碗』、向田邦子『思い出トランプ』、村上春樹『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』などなど。すばらしいラインナップです。

クラリスブックスも、たくさんの良本をたくさんのお客様に届けられるよう精進せねばと、あらためて思いました。

 

クラリスブックス 石鍋

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