2016年10月
文・石村光太郎

 

2016年10月2日(日)クラリスブックスの読書会が開催されました。課題本はジェイムズ・ジョイスの『ダブリナーズ』を取り上げました。

『ダブリナーズ』は『ユリシーズ』『フィネガンズウエイク』の2大作で20世紀最大の作家のひとりとして形容されるジェイムズ・ジョイスが、故郷ダブリンを舞台にして綴ったキャリア初期の短編集です。
『ダブリン市民』『ダブリンの人びと』『ダブリンの市民』などのタイトルで多数の訳者による翻訳本が出版されています。『ダブリナーズ』というタイトルはいちばん最新のもので、柳瀬尚紀さんが訳されております。現在でも様々な訳者によるものが、比較的手に入りやすく読める作品は珍しいのではないでしょうか。図書館から3つ、4つ借りて今回の読書会に参加された方もいらっしゃいました。

クラリスブックス読書会ジェイムズ・ジョイス『ダブリン市民』

「彼女は窓辺の椅子に座り、夕闇が通りへじわじわ侵入してくるのを眺めていた。頭を窓のカーテンへまもたせかけていると、ほこりっぽいクレトン更紗の匂いがする。疲れていた。」
これはこの短編集の3つ目の作品「エブリン」の冒頭の部分です。
何ひとつなく代わり映えしない人生を送る運命を、しかも一瞬の輝きの訪れによりその運命に逆らうチャンスもあったのにあきらめてしまう主人公エブリンの姿が、たった3行で表現されています。ダブリンの街の様子、例えば広さや、気候、賑わいといったことは知りませんし、クレトン更紗もよく分かっていません。しかしそれにも関わらずこの3行からは、どんよりとした空気、熱量、薄暗さが醸し出されてくるし、そこにいる主人公エブリンおよびダブリンという街の閉塞感やそこから抜け出せない諦念が滲み出るように伝わってきます。私はこの3行を読んだときに電気が身体をはしるような痺れを覚えてしまい、すっかり『ダブリナーズ』の世界に引き込まれ、最後の「死せるものたち」まで楽しむことができました。

ところが今回の読書会で「すっげえ、感動しました」と熱くなっていたのは私くらいで、わりとみなさん冷静というかそれほど感情移入しては読んでおられないようでした。まあこれが読書会の醍醐味というもので12人集まれば12通りの読み方があるということをあらためて感じ入りました。そのひとりひとりの「読み」を互いが尊重し、刺激しあうことで読者のみならず、作品そのものの世界も豊かになるのだと思います。

報われない人生観、劇的な展開の無いストーリー、共感できないキャラクターなどなど。閉塞感に満ちたやるせない、多少のうら悲しいユーモアもありつつ、ぶつぶつと呟くような淡々と短い話が最後の「死せるものたち」まで続いてゆきます。もやもやした読後感を抱くことは否めません。ここに描かれているのは作者ジョイスが愛して止むことはないが、嫌悪の対象でもある陰鬱なダブリンの街の写り絵のような人々「Dubliners」の移ろいゆく声、声、声、なのではないでしょうか。

ジェイムズ・ジョイス『ダブリナーズ』 ジェイムズ・ジョイス『ダブリン市民』

『ダブリナーズ(Dubliners)』というタイトルは複数形で、ダブリンに暮らしこの小説集に登場する人物たちのことでしょう。最後の一編のタイトル『死せるものたち(The Dead)』は英語だと複数形ではありません。もうこの世にはいないものたちの魂が、ひとかたまりになって渦巻いているような圧倒的存在感を感じさせ、それに比べ日夜あくせくと生活している我々は、その存在感に時として押しつぶされてしまいそうになるちっぽけな独りです。しかしその独りもやがて街ごと渦の中に、歴史と世界の中に取り込まれてゆく。街の片隅で亡くなった司祭とその老姉妹も、変質者に出会った子供も、冒険を夢見て果たせなかった女も、レーサーも、家庭内暴力男も、酒飲みも、妻の思い出の中にいる若くして死んだ少年も、その少年に嫉妬する夫も、そしてその声を聴いた読者もまた地続きの世界にいます。読者もいずれそこへ取り込まれ、そこには一面の白い雪が静かに、安らかに降り積もっているでしょう。

長々と感想を書いて申し訳ありません。この言葉の芸術に対し、駄文を重ねるほど恥じ入るばかりなのです。

最初にも書きましたが『ダブリナーズ』は複数の翻訳が容易に手に入るので、今回の読書会ではみなさん読んだ版が違っていました。新潮社の柳瀬尚紀の訳によるものは読みやすいうえに、ジョイスの英語にかなり挑んでいる感じがしました。また思い切って注釈を付けず、解説もぶっきらぼうで読者に委ねている感じも潔くて好きでした。訳によって言葉がまるっきり違うところもあるようでしたし、版によってはかなり注釈を細かく付けているものもあり、解説に文体論を長文で載せてあるものもありました。注釈や解説があった方がより作品や舞台となったダブリンという街の風物や宗教的な背景といったことはよく窺い知ることはできますが、あまりくどいと小説の味わいを損ねてしまうかもしれません。

最後になりますがジョイスといえば『ユリシーズ』なのですが、当然読書会でも言及され、みなさん次は『ユリシーズ』に挑むと闘志を掻き立てておりましたが、機が熟したら(いつだ?)読書会で『ユリシーズ』を取り上げるのもいかがなものでしょうかと言って終わりたいと思います。

 

クラリスブックス 石村

 

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