2018年3月
文・石村光太郎

 

2018年3月4日(日)クラリスブックスの読書会が開催されました。課題本は大岡昇平の『事件』を取り上げました。

代表作の『野火』や『レイテ戦記』など戦争小説のみならす、『武蔵野夫人』のような恋愛小説や評論、エッセイなどでも充実した作品を残した大岡昇平が、1961年に当初『若草物語』のタイトルで朝日新聞に連載し、のちに1977年にタイトルを変え単行本として刊行されたものが本書『事件』になります。翌年の1978年の日本推理作家協会賞を受賞しておりミステリーとしても有名な小説です。

東京首都圏郊外の森林で女性の他殺死体が発見されたことを発端に、この事件の背景と人間関係をさぐり真相に迫ってゆきます。ミステリーと言っても犯人探しではなく、小説の冒頭にこの事件の被疑者が19歳の少年であることは明らかにされます。この事件の様々な「何故」を明らかにし、どのように少年は裁かれてゆくのか。その裁判の場を主要な舞台として、裁判制度のあり方に深く踏み込んでゆくのがこの作品の主題です、

創元推理文庫版のちょうど50ページ目こうあります。
「法廷が一番静かになるのは、このときである」
裁判の開始が告げられたこの一節とともに、我々は横浜地裁の第四法廷の傍聴席に座り、大岡昇平の精緻な描写に導かれこの裁判の推移に一喜一憂してゆきます。事件そのものの物語の行方もそうですが、何よりも事件を裁く裁判がどのように進行してゆくか、冒頭陳述から判決、結審へといたる手続きの一切合切が、空想の物語とは思えない、実際の事件の優れたドキュメントのような隙のない描写に引き込まれます。

 

この小説はフィクションではあり、事件も裁判も架空のものです。作者の意図により派手な展開とどんでん返しをみせることも可能なはずですが、大岡昇平は淡々と誠実にこの「殺人並びに死体遺棄容疑」事件を追ってゆきます。証拠調べや証人尋問という裁判の進行に伴い明らかになってゆく事実が積み重ねられて、我々は様々な角度から真相に近づいてゆきます。裁判を通して人権の背景となった戦後高度成長期の時代背景や、首都圏郊外の土地柄、その時代その場所に暮らした人々の人間関係を包括した世界観が我々の現前に広がってゆきます。そして事件をめぐる様々な事実が明らかになり、裁判は判決へと向かってゆきます。

事件の概要が明らかになり判決が下され、物語が大団円へと到るのかという期待ははぐらかされます。この小説をここまでたどってきた我々は、裁判というものがはたしてどこまで真相に近づけるか疑問を抱いてしまいます。判事が判決を合議する場面で、一緒になってこの事件にはどのような判決が下されるか真剣に悩んでしまったという意見がありました。そして下された判決が折衷案のようなものであることに、すっきりしないものが胸に残ります。事件の背景にある複雑な人間関係や心理状況が綿密に描かれているからこそ去来するもやもや感なのだと思います。

雑多な思惑がもつれ合う現代社会の中で発生する様々な犯罪。がそしてその犯罪に下された裁きを、加害者、被害者、法の執行者、そして社会がどうやって受け入れ、各々の罪と罰と向き合ってゆくのか。多様化する世界の多様化する真実の中での法の限界を見据え、法と人の有り様を我々は注視していかなければならない。ひとつの物語の起承転結に終わらず、「事件」という小説は、いまここにある世界の声に常に耳を傾けることを我々に示唆してくれました。

 

クラリスブックス 石村

 

 

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